10月19日(日)、日本が誇る国際派俳優・三船敏郎さんの功績を称え、京都国際映画祭より新設された「三船敏郎賞」の受賞者がいよいよ発表となります。
この賞は、日本のみならず海外でも高い評価を受けた三船さんのように、世界でも活躍が期待される俳優に贈られる栄誉。
注目の授賞式に先がけ、よしもと祇園花月では、三船さんの代表作『羅生門』、『風林火山』の特別上映会とトークショーが行われました。
『羅生門』の上映直後、作品の感動さめやらぬ中でスタートしたトークショーには、『羅生門』をはじめ三船さんが数多く出演した黒澤明監督作品の“記録(=スクリプター)”として活躍した野上照代さん、三船さんの長男で三船プロダクション代表取締役の三船史郎さん、映画ファンから熱い支持を受ける大阪・九条の映画館「シネ・ヌーヴォ」代表の景山理さん、そして、吉本新喜劇からチャーリー浜、未知やすえが登壇し、月亭八光が司会を務めました。
まずは、『羅生門』で妖艶な美女を演じた女優・京マチ子さんから「三船敏郎賞」に届いたメッセージが紹介されました。
「いつも活力に溢れ、魅力的。馬を乗りこなす技も見事。こんなにすごいスターが現れたのかと驚いたものです」と三船さんの魅力を振り返る京さんは「“三船敏郎”というお名前が、こうして映画史に残るのは、なんと素晴らしいことでしょう」と賞の新設に喜びの声を寄せました。
今回、『羅生門』を初めて鑑賞したという未知も「眼力がスゴイ。今見ても本当に本当に男前ですよね~」とすっかり虜に。トークでは、そんな三船さんの魅力や素顔を野上さんと史郎さんが明かしました。
「三船さんは彗星のように現れた。最初からスターでした」とデビュー当時からスターの輝きを放っていたことを語る野上さんは、その後、“世界のミフネ”と呼ばれる国際的俳優になったことについて、「三船さんは誠実な人。黒澤監督に素晴らしい俳優だと惚れ込まれ、その思いに報いようと、人に見せない努力を積み重ねた結果だと思います」とその理由が真摯な人柄にあると分析。
また、史郎さんによれば、家庭での三船さんは「仕事の話をまったく家に持ち込まなかったので、父が映画の仕事をしていることを意識せずに過ごしていました」とよき父に徹していたことを明かしました。
さらに、実は三船さんが最初は俳優志望ではなく、撮影カメラマンになりたいと「裏方を目指して映画界に入った」という秘話も披露。納得いかないまま俳優の面接を受けることになった三船さんの、史郎さん曰く「ふてぶてしい態度」が黒澤監督の目に止まり、それが後の“世界のミフネ”“世界のクロサワ”コンビを生み出すきっかけとなったという運命のエピソードに、観客も興味深く聞き入っていました。
さらに、『羅生門』の貴重な裏話も披露。
同作品は1950年に京都で撮影され、ヴェネチア国際映画祭でグランプリにあたる金獅子賞を、アカデミー賞最優秀外国語映画賞を受賞するなど海外でも高い評価を受け、日本映画の素晴らしさを世界に知らしめるきっかけとなった名作ですが、日本映画の歴史に造詣の深い景山さんによれば、公開前の試写で作品を見た当時の映画会社の社長の評価は「なんだかわけがわからん!」と散々だったとか。
しかし、深遠なストーリーと俳優陣の素晴らしい演技、美しい映像は、製作から64年を過ぎた今も世界中の人々を魅了しています。
未知は「林の中を疾走するシーンがすごいスピード感。当時はクレーンもなかったのに、どう撮ってるんですか?」と、浜は最小限の登場人物で見事な人間ドラマが描かれていることに「新喜劇より出演者が少ないのに」と驚かされた様子。
撮影の苦労話をたずねられた野上さんは「話すと長くなるわよ?」とジョークでかわしましたが、撮影期間が真夏だったことから「やぶ蚊が多くて大変だったでしょ?」という未知の疑問には「それはいい質問ね!」とニッコリ。
「あのころは、(虫除け対策には)アメリカ進駐軍のDDTよ。現場ではみんなあれを使ってましたよ(笑)」と終戦からわずか5年後の映画の現場の実態を懐かしそうに明かしてくれました。
戦後間もない時代、世界の絶賛を受け、日本人を勇気づけた傑作『羅生門』。
最後に野上さんは「たった42日しかなかった撮影期間の中で、ここでしかあり得ない奇跡的な方法で撮影した映画。
世界でも日本でもこれ以上に奇跡的な作品はありません。永久に残る作品。そんな映画に参加できたことは幸運です」と客席に語りかけ、満場の拍手を浴びていました。